第三章  十年の月日

「真佐海さん、昔この店でバイトしてませんでした?」

何となく気まずい雰囲気が流れている事を悟った統馬は、今思い出したかのように切り出し、話題を変えた。

「なんでそれを?」

「昔、ここによく通ってたんですよ。学校サボリがてらに。でも、突然真佐海さん店に出なくなっちゃって、マスターに聞いたら事故に遭って入院中だって言われて。あの時の怪我はもういいんですか?」

真佐海は飲み干したコーヒーカップを片付け、冷蔵庫から一つだけ残っていたケーキを取り出し、統馬の前に置いた。

「昨日作ったケーキの残りだけどよかったら食べて」

徐にジーンズから煙草を取り出し、火を付ける。

普段は吸わないが、苛立っていたり、落ち込んでいたり、考え事をしている時など、気分が落ち着かないときには吸ってしまうのだ。

特に嫌な事を思い出した時などは、一箱は軽く吸ってしまう。

周助も、家を出てから一時禁煙したらしいが、今はヘビースモーカーになっている。

さっき片付けた灰皿も、吸殻が普通の客の倍はあった。

「ここのバイト帰りに酔っ払い運転の車に跳ねられて左腕、 手首を複雑骨折。もう少し酷かったら神経が麻痺してたん だって。だから・・・・・・店も辞めたんだ。治る見込み が自分でも判らなかったから、マスターに迷惑かけると思 って。本当は 社の内定も決まってたんだけど、いつ退院 できるかわからなかったから辞退した」

真佐海は自分の右手を見つめたまま、握り締めたり開いたりを繰り返した。

今でも時々痛むそれは、とても辛い。

「それで・・・・・・退院はいつだったんですか?」

「退院できたのは大学卒業間際だったんだ。論文とかはもう 提出していたし、テストも終わった後の事故だったからな んとか卒業はできたけど」

短くなった煙草を灰皿でもみ消し、また新しいものに火をつける。

だけど、アパート戻っても片手が使えないから殆ど何も出 来なくて、実家帰っていたんだけど、ある日オーナーが来 たんだ。田舎に引っ越すけど、店を畳みたくないからって 半ば強引に代理オーナーを頼まれて、今に至るわけ。周助 は・・・・・・ただのブラコンだよ。確かに前は一緒に住 んでたけど、今はもう一週間に一度か二度泊まるだけ」

真佐海は懐かしんでいるかのように笑みを浮かべた。


今思うと、オーナーは真佐海を元気付けようとしていたのかもしれない。

「真佐海さんはここで働いている姿が一番似合ってますよ。 他の仕事してる姿をオレは見た事無いけど、なんかそう思 うんです。オレ、大学卒業してもここに通うんで、お願い ですから突然閉店とかしないでくださいよ」

悪戯っぽい笑みを浮かべて統馬は真佐海を肘で軽く小突いた。

「この店に通ってくれるのは嬉しいけど、朝飯ぐらい作って くれる彼女を早く見付けた方がいいんじゃない?」

空になったケーキの皿を手にカウンターに戻り、真佐海は統馬に言い返した。

「女はもういいですよ。結構オレも痛い目にあってるんで。 それに今時の女は料理なんてしてくれませんって。作って くれても真佐海さんの料理の方が美味しいし」

「そっか」

真佐海は大きく背伸びをすると、黒いエプロンをつけて冷蔵庫のドアを開けて中身を確認した。

「オレ、この後もどうせ用事ないんで手伝う事あります?」
「だったら倉庫の冷蔵庫からカレー用って書いた箱持ってきてくれる?」

「了解」