第三章  十年の月日

カラン、とドアに下げられた小さなドアベルが来客を告げる。

「おはよう、統馬」

午前八時半。

真佐海が代理オーナーとして経営する純喫茶店、『胡蝶』には二、三人のスーツ姿の客が、朝食を食べたり、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいたりと、出勤時間までを思い思いに過ごしていた。 

『胡蝶』は駅から徒歩十分弱と近い距離にありながら、街の騒々しさとは離れた住宅地にあり、都会からは消えてしまった安息を自然に与えてくれていた。

それも、たった一人で切り盛りしている真佐海の人柄と店のどこか懐かしいような雰囲気のせいだろう。

「おはようございます、真佐海さん」

半年以上通いつめた末に、指定席となってしまったカウンターの左端に五十嵐統馬は座った。

最初は統馬の事を君付けで呼んでいたのだが、統馬が呼び捨てにしてくれと言って以来、真佐海はついつい付けてしまう「君」を言わないように気をつけていた。


身長が高く、同年代の男性に比べれば筋肉質な方なのだろう。

体格のいい統馬にはテーブル席の方がいいのではないかと真佐海はいつも思うのだが、統馬はなぜかこの席にしか座らなかった。

 

「今日から冬休みだって聞いていたから、もう少し遅く来 るのかなって思ってたけど早かったね」

「もう少し寝てようと思ったんですけどね・・・・・・どうも腹 減っちゃって」
 

統馬の前に差し出された朝食は喫茶店のマスターが作ったものとはいえ、二十五の男が作った料理とは思えないほど美味しそうな和食だった。

 

真佐海はさまざまな客のために、朝でも和食と洋食のどちらの朝食でも出せるようにしている。

統馬は和食通らしく、時間がないとき以外は和食を食べていた。

「相変わらず、真佐海さんの料理はそこら辺の女が作ったより美味しいよ」

褒め言葉を並べて大盛に盛られた茶碗を抱え、次々とおかずを口に運んでいく統馬を、真佐海は笑顔で見ていた。

ふと、真佐海が腕時計に目をやると、周助の出勤時間がもう数分と迫っていた。

「あ、周助、そろそろ出る時間じゃない?」

統馬とは反対の右端に座っていた周助に、真佐海は腕時計を見ながら慌てて告げた。

ここから車で二十分という距離にある会社に務めている周助は、将来的にはその会社の次期社長として一目置かれていた。

そして、これから片道四十分ほどかかる実家へ車を飛ばし、社長である武を迎えに行くのだ。

「ああ、もうそんな時間か。じゃあまた来週来るよ。時間 が取れたらまた来る」

コートを羽織、軽く真佐海の頭に手を乗せると周助は急ぎ足で店を出て行った。